日本人街で青森ねぶたを運行
移民70周年記念祝賀会式典開催の前年(1977年)、青森県の北村正哉県知事の働きで、日伯協会、移住者留守家族連合会が中心となり、青森商工会議所、東奥日報社、青森銀行、みちのく銀行協賛で青森県からねぶた祭りが来ることが決まった。東奥日報社旅行事業部、JTB青森が共同でねぶた師の先発隊と本体60人の枠でねぶた関係者、ならびに日伯交流関係者など県から一部補助金をとりつけて公募した。そして総勢65人のサンパウロねぶた祭りツアーが催行された。サンパウロでミニねぶたを製作してガルボン・ブエノ街を100人の「はねと」が練り歩く、というものだ。
北村県知事へ嘆願して、本ツアー実現にもっとも大きな力を入れたのは、当時の青森県人会の渋川正吉会長と日伯協会の会長で東奥日報社の山本省一社長だった。
まず1か月ほど前に10人のねぶた師の先発隊が到着し、青森県人会の役員たちが同行しながら、ねぶた製造のための材料を集め、日本文化協会の地下駐車場で作業が進められた。本場の青森ねぶたと異なり、ガルボン・ブエノ街で山車をだして練り歩くためミニねぶたになり、幅4メートル、奥行き3メートル、高さ3メートルほどの大きさになる。
青森ねぶたまたは青森ねぶた祭とは青森県青森市で8月2~7日に開催される夏祭りであり、毎年、延べ300万人以上の観光客が訪れる。1980年には国の重要無形民族文化財に指定された。
以前、起源としてよく知られていたのはのちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂が陸奥国の蝦夷征討(三十八年戦争・第3期)の戦場において敵を油断させておびき寄せるために大蟷螂・笛・太鼓ではやし立てたことを由来とするものである。このため、青森ねぶた祭りの最優秀団体に与えられる賞として1612年に「田村麿賞」が制定された(現在では「ねぶた大賞」と名称変更されている。後述)。しかし田村麻呂が現在の青森県の地で征討活動をしたとは考えられず、ねぶたの起源とされたものも田村麻呂伝説の一つと見られる。現在では、日本全国にある土着の七夕祭りや眠り流しの行事(禊祓い)が変化したものと考えるのが主流である。
このほかにも八切止夫が「ねぶた」という言葉の語源から推察した説も存在する。かつて東北に追われた原住民であった蝦夷を組織化し、征東大将軍・紀古佐美の率いる5万の大軍を北上川で全滅させ鉄武器を奪って田子の浦まで攻め込んだ阿弖流為という王が東北にはいた。その後、大陸の援助で鉄武器を大量に補給された田村麻呂らと12年に渡って戦ったが最後には制圧されて蝦夷は滅びた。阿弖流為は今の大阪府の杜山まで連行され朝廷に謁見後、斬首、さらし首にされたが東北に残っていた妻子や残党は大きな穴を掘らされて生きながら埋められ惨殺されたとされている。その生き埋めの上に土をかけ、その土を素直に降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた。これが今の東北三大奇祭のねぶた(根蓋)の起こりであるとされている。つまり「根」(死)の国へ追いやるための土かぶせの「蓋」ということである。踏んづける恰好をする踊りに田村麻呂の山車を担ぎ踊る様は、その時のエピソードを表現しているとされている。ただし、八切止夫の語源解釈は歴史学・国語学の方面では学術的意義を認められていない。(つづく、成田修吾)
2010年9月9日付