消えた空の架け橋JAL回想録① 11/09/27 (14:58)  Icone_imagem

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コンゴニアス空港に初飛来したJAL機(DC6型)

聖市市制400年に初飛来した「京都号」

1年前のきょう(9月27日)、日本航空(JAL)南米路線の最後の直行便がサンパウロ・グァルーリョス空港を離陸した。以後、32年間にわたりブラジルと日本を結んだ直行便が運休となった。あれから1年、いまだに両国間を往復する人たちは不便さを感じており、「どの航空会社を使っているの」と言う言葉があいさつ代わりになっている。それだけ、生活に密着した路線だった。ブラジルと日本を長年にわたり結んできたJALは運輸機関というだけでなく、ブラジルに住む移民にとっては日本と繋がる窓口だったのだ。日系コロニアは、JALの運休を押しとどめようと、署名活動を展開し、国土交通省まで署名簿を持参して請願したがその願いもかなわなかった。運休1年を契機にJALの翼が結んだ日伯航空史、移民小史を20回連載でお届けする。(編集部・鈴木雅夫)

日本航空(JAL)は、日本政府主導による半官半民の体制で1951年8月に設立された。当初、国内線だけを運行していたが、53年11月に初の国際線東京(羽田空港)―ホノルル―サンフランシスコ線の運航を開始した。そして、翌54年にはニューヨークやサンパウロ、香港、台北など世界の主要都市に相次いで支所や営業所を開設した。この中にサンパウロが入っていることを見ても、JALがいかに南米路線を重視していたかが分かる。

  54年と言えば、ブラジルへの移住再開直後で注目を浴びていたことや、日本人移民が数多く在住し、今後、移住先国として日本政府が重要視していたことからサンパウロに支所が置かれたのだろう。

日系コロニアを見ると、勝ち組・負け組抗争の影響が色濃く残っていた53年1月、戦後再開された第1回移民がサントス港に到着した。また、同年、ブラジルと日本の国交も回復、日伯通商協定も調印され、名実ともに両国間の往来が盛んになる端緒となった。

54年の聖市市制400年に向け51年末には「聖市市制400年祭典日本人会協力会」が結成され、積極的な活動を展開していた。 
日本政府は、市制400年に聖市が記念事業として造成したイビラプエラ公園内に日本館の寄贈、見本市への出展も決めるなど積極的な姿勢で臨んでいた。

そして54年10月10日、岡崎勝男外相を団長とする聖市市制400年祭慶祝親善使節団一行が日航特別機「シティ・オブ・キョウト」号(DC6型機)で聖市のコンゴニアス空港に到着した。ただ このときは、岡崎団長と同行した400年祭見本市関係者が降りただけで1時間後にはリオに向け出発している。それでも、コンゴニアス空港には機体の尾翼に日の丸をあしらった「日の丸機」を一目見ようと約300人の日本人が空港に詰めかけ、着陸と同時にバンザイとどよめきでブラジルへの初飛来を歓迎した。



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